OB会同好会として、平成5年(1993年)3月発足以来毎月欠かさず句会を続けて、昨年11月で二百回を迎えた。各自の作品一句の自句自解、俳句との出会い・俳句の楽しさ・俳句に関するエピソードなどを、記念に書き留めてみました。
先生 奈良 文夫 | ![]() | |||
父の影踏めるおもひに春の山 | ||||
在学中に病気をし、復学そして卒業後直ぐに結婚して父には何もむくいぬままに逝かれた。退職して数年の平成十四年春、その父の生家に近い山での所詠。 | ||||
百合の香や誓ひのキスを父母の前 | ||||
父母にとって一番嬉しい日、こんな句を作った。しかし、人生いい日ばかりでない。 | ||||
耐ふるとき男も草をむしりけり | ||||
八方ふさがりの日々、ふっともらすようにできた一句。こうしてまた生きることができた。 | ||||
大野 章 | ![]() | |||
行く秋や新型インフル去にさらせ | ||||
病魔退散を願う時事俳句です。近世後期の上方弁を使って、重いテーマを明るく謳ったところが、拙いながらこの句のミソでしょうか。 | ||||
* * * 小生句歴五十年という連れ合いに背中を押されて、この道に入って四年という新参者。しかし日々の暮らしの中から生まれる諸々の感動を、肩肘張らずに十七文字にまとめるという習慣が段々と身に付いて来て、今や専ら日記代りに作句しています。なにしろ電車の中で楽しめるのですから。 | ||||
大野 鶴子 | ![]() | |||
百歳ももしやの茅の輪くぐりけり | ||||
平成四年鶴岡八幡宮ぼんぼり祭俳句大会の作。当時百歳の金さん銀さん大人気の時代。でもわたしなど「百歳はまさか」としたのを投句寸前「もしや」に変更。それが選者特選に。 | ||||
* * * 俳句との出会は広畑製鉄所OL時代、友の誘いの小句会が最初。やがてスランプで中断後、夫の転勤を機に本社同好会に参加、今日に至った次第。揚句の「まさか」を「もしや」への変更は、常々無知で気楽な私への夫の口癖「長生きするよ」の一言がヒント。有難う。 | ||||
蒲生 高郷 | ![]() | |||
投げ入れて決まる姿や女郎花 | ||||
北海道では、野生の女郎花を偶に見る事があります。どちらを向けても風情があって、女郎花とは言い当てたものだとつくづく思います。 | ||||
* * * 当地では、春夏秋の花が一斉に咲きますので、季語には迷ってしまいます。東京の皆様と歩調が合わないので悩んでいます。 終の住家に入りますと俳句以外の遊びは苦痛になります。俳句をやってて良かったと、つくづく思います。 | ||||
阪下美代子 | ![]() | |||
霧匂ふ小径下りけり谷の湯へ | ||||
中津川から下呂温泉への道は、九十九折りで全山綿繍の真只中でした。途中の谷沿いに一軒の宿。二十年前に訪ねた時のままでした。学友四人と旧交を温めました。 | ||||
* * * 蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉 俳句との出会、それは女学生二年の頃でした。生物の授業の終わりに、必ず芭蕉の一句を披講して下さり、その句に纏わる話をして下さったのです。傾倒している芭蕉の句を通して、戦時下の私たちに日本人の感性を熱く説いて下さいました。芭蕉の名を心に留めたのは、その師の教へが初めてでした。 | ||||
中津海知定 | ![]() | |||
BC級戦犯遺書読む夜の長さ | ||||
古書まつりで文庫本の古書「BC級戦犯の妻」という本を入手。読み終る迄手放せませんでした。秋の夜が更けるままに。 | ||||
* * * 俳句との出会は社会人二年目でした。石坂友二先生のお人柄にうたれました。 俳句は音数律の短詩ですが、ご覧の通り上達いたしませんでした。ただ詩の基本として感動があればと思うのです。いかがでしょうか。 | ||||
中野 東音 | ![]() | |||
北風になじみて丸き賢治の碑 | ||||
北上川中流沿いの里に生まれ、学芸会で宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」の一郎役を演じて以来、郷土の賢治から啄木へと、詩歌への興味が今に湧き続き、幸いであった。 | ||||
* * * 感動や思いを表現し伝えることのできる俳句の世界の広さ、奥深さに、いつも魅了されながら親しんできた。句会に出ると心身ともにリフレッシュでき、俳句の持つ力に励まされている。作品の積重ねが自分史となり、何よりも心通う多くの友人を得たのが有難い。 | ||||
中村 光男 | ![]() | |||
バッタ飛ぶ異国に築きし城の址 | ||||
夏の韓国旅行の時、「倭城」に連れていってもらった。「倭城」とは秀吉の朝鮮の役で日本側が築いた出城、今でも城址が幾つか残っている。麓に到着して見上げれば城垣がある。強い日光を浴びながら夏草をかきわけ登る。本丸、天守閣の跡。我々以外は誰もいない。夏草が茂っていてバッタやトンボだけが飛んでいる。芭蕉の句を思い出す。 夏草や兵どもが夢の跡 不思議な異国の城址の想い出である。 | ||||
服部 健 | ![]() | |||
繁留の羊蹄丸に遇ふも秋 | ||||
属している結社の全国大会で選者の特選であった。かつて出張の折、乗り継いでいた青函連絡船が東京埠頭に時代に取り残されたかに展示されていた。懐かしさをおぼえた。 | ||||
* * * 定年と転職のはざまを川越に遊び、初めて「名物は芋菓子といふ祭かな」を作り、妻の入っていた、中村草田男「萬緑」に誘われて二十数年。 草花や雲の動き、季語や文字の深みを再発見し、季節の移ろいに遊んでいる。 | ||||
北郷たかを | ![]() | |||
冬耕や老夫は影を長く引き | ||||
八ケ岳の麓で畑をやっている。日が落ちて来ると、自分の影が畑に長く伸び、そして日が山に隠れると急に冷えてくる。老夫婦二人で耕す山の畑は、厳しくかつさびしいものだ。 | ||||
* * * 俳句を創る−平穏な日々の生活の中で、俳句を創るという作業は、かなりの緊張と集中力を必要とする。わずか十七文字の中に、自分の思いを凝縮させなければならないからだ。そして良い句が出来た時には、その満足感が平凡な生活に輝きと花を添えてくれるのだ。 | ||||
増田 浪枝 | ![]() | |||
帰省子の真先に駅のうどん食ぶ | ||||
上京を決意し、行李一つ抱えて故郷を出た。駅で見送る気丈な母が発車のベルで涙を見せた。我慢できなくなった私の目に、うどんの幟旗がくしゃくしゃに歪んで消えた。 | ||||
* * * 脳の活性化につながるということで、雛菊会に入れていただきました。眼中のもの皆俳句といわれるように、身構えず率直な気持ちを十七文字に託し、いまは「継続は素質」ということばに勇気づけられております。 | ||||
松倉美智子 | ![]() | |||
大夕焼馭者座に鞭の鳴り止まず | ||||
ナイル川の遊覧を終えて、箱馬車でホテルに帰る途中のことです。暑さに馬が動かなくなり、容赦なく鞭打たれる馬が可愛相と馬車を降りて遠い道を歩いた思い出の句です。 | ||||
* * * 始めたら止める人が少ないと言われる程、俳句は本当に面白いです。句語の組合せの妙、面白さ、句会、吟行の楽しさ等魅力が沢山あります。誰でも簡単に作れ、ときとして初心者でもベテランがうなる程の佳句が出来るのも、俳句の面白さの一つかも知れません。 | ||||
水野 写六 | ![]() | |||
初孫の歩き初む日やカンナ咲く | ||||
誰でも詠むみそうな句だが、それでも詠まずにはいられなかったのは、一人前のお爺ちゃんになった証しだろうか。カンナのように明るく逞しく育ってくれと祈るばかりである。 | ||||
* * * 俳句との出会いは文藝春秋社の小学生全集だった。「俎に下女取り落す海鼠かな」という句を「取り落し取り落したる海鼠かな」へと推敲してゆく過程が、小学生だった私の心に残った。七十路半ばの今なお俳句の世界には、初めて出会うことが多いのに驚いている。 | ||||
守田 和之 | ![]() | |||
地の果てや吠ゆる熱砂の砂嵐 | ||||
昭和五十二年アルジェリアのサハラ砂漠にあるガラジビレ鉄鉱床の調査に行った時の句。この時の気温は摂氏四十七度、全身に砂を受け、風の音のみで太陽はかすみ、景色も何も見えなかった。 | ||||
* * * 俳句との出会いは昭和五十二年一月新日鐵俳句部に入り、村沢夏風先生に教わるようになってからで、昭和六十二年に結社「嵯峨野」に入り、平成五年よりOB会で「雛菊句会」を始め、平成十年迄夏風先生の御指導を受け、引き続き現在迄「萬緑」の奈良文夫先生に教えていただいている。 |
雛菊俳句会発足の経緯
昭和六十二年に、新日鐵本社俳句部が閉会となり、原料関係者(堂迫元常務他)は七洋会の俳句会に参加のところ、堂迫さんの提案で、OB会の三番目の同好会として平成五年三月に二十名で発足。会の名称は、初回の兼題「雛菊=長命菊」による。指導は村沢夏風先生(嵯峨野主宰)のあと、奈良文夫先生(萬緑選者)。